ニーチェにうふふ
変な人と思いきやニーチェです
先日
娘の体調が悪かったので
お休みを頂きました
女房を仕事に送り出した後
息子は必要以上に元気なので当然保育園
娘を抱っこして3人で保育園まで行きました
(徒歩で行ける距離なのです)
帰り
保育園と小学校は隣接しているのですが
その小学校のグラウンドで2~3年生位の子たちが
体育の授業を受けていました
種目はハードル
小さなハードルを一生懸命に跳んでいる子どもたちの姿を
微笑ましく眺めながら娘を抱っこして歩いていたのですが
よく見るとハードルの置き方が逆なのです
つまり
もし子どもが引っかかってもハードルは倒れないので
実に危険な状況なのです
私はそれを指導している先生に
伝えようと思いましたが
グラウンドに入る事に気がひけました
昨今の世知辛いご時勢ですから
赤ちゃんを抱いているとは云え
小学校に私のような不審めいたモノが入っていくと
怖がられないか心配だったのです(ヤーカラチーで出歩く私)
その姿は例えて言えば
女房に逃げられたロクデナシが八つ当たりに来た図
取り合えずたまたま近くに警備の方が居たので
その旨を告げると
即座に先生に伝達されて改善されました
(いい加減な先生がいるな~)
と思いながら歩いていると
高校の頃に出会った他の
いい加減な先生を想い出しました
「倫理」という授業がありました
古代ギリシアの哲学者たちが
(どうたら)と言い遺した
なんて事から始まり
パスカルが
カントが
ヘーゲルが
キルケゴールが
和辻哲郎が
(その他大勢)が
(どうのこうの)と云う言葉を遺した
と教えられた記憶があります
哲学の入り口に立つ倫理学で教える事は
結局「哲人たちの語録」
その当時
音楽と女にしか関心のない私には
シド・ビシャスの語録には興味があっても
哲人たちのありがたい御言葉はサッパリ・・・
何が言いたいのか?
何が偉大なのか?
じぇんじぇん理解出来ませんでした
17、18のハナタレが
「人間は考える葦である」
と言われてどうですか?
「あしって何?」がオチですよネ
(少なくても私はそうでした)
そんな中教鞭を振るう先生が
ある日ニーチェの解説をしていました
「ニーチェと云うのは実に個性が強く
まさに
カリマス性が強い人で・・・」
私は耳を疑いました
(今カリ
マスって言ったよな?先生なのに・・・)
その後カリ
マスを連発する教師に
混乱した私は
もしかしたら本当に「カリ
マス」と云う単語があるのかも知れない
とさえ思いました
事実そんな事は無く正しくは当然
「カリスマ」
しかも「カリマス」ってなんか
いけない響きを含んでますよネ?
それ以来私は
ニーチェに只ならぬ何かを感じています
って
そこかい?
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